火野葦平「海抜四百尺」北九州市(写真で見る文学周遊)

 太平洋戦争では高射砲陣地となった高さ124メートルの高塔山。そこに暮らす住民や兵隊の敗戦前後の悲喜劇を、火野葦平は郷土愛を持って描いた。1948年に発行された作品「海抜四百尺」の舞台を訪ねた。(11月4日付夕刊掲載「文学周遊」の取材で撮影した写真で構成しています) (4日 14:00)

高塔山の展望台から街を眼下に望むと、洞海湾に架かる若戸大橋が夜を彩っていた。「(B29による空襲の)警戒警報解除のサイレンが鳴りはじめて、眼下の暗黒のなかにぽつんぽつんと眼(め)をひらくように灯(あかり)の数が増していった」

  • 北九州市の若松区(奥)と戸畑区を結ぶ若戸大橋。小説の舞台となった高さ124メートルの高塔山が夕日を隠すころ、釣りに興じる中学生の笑い声が響いていた
  • 「高射砲隊の書類にはいつでも『高塔山は海抜四百尺ノ稜線(りょうせん)ニシテ云々(うんぬん)』と書かれているから、大威張りで山ともいえないくらいなのだ。上空から見れば、四百尺の山などは平地と同然なのだ」
  • 高塔山の中腹にある石碑には、葦平の自筆で「泥によごれし背嚢(はいのう)にさす一輪の菊の香や」と刻まれている。毎年、命日前の日曜日にはここで「葦平忌」が営まれる
  • 旧宅「河伯洞」の2階にある書斎で葦平は睡眠薬を服用して自殺した。誕生日の前日、1960年1月24日だった。従軍記「麦と兵隊」など兵隊3部作で国民的人気を博した一方、終戦後は公職追放されて戦犯作家とも呼ばれた
  • 「河童(かっぱ)がすむ家」という意味の河伯洞で、多数の文学作品を生み出した。河童にまつわる小説も多く執筆した
  • JR九州筑豊本線を走る列車を渡線橋から見下ろす。高塔山の頂上はここからは見えない。河伯洞の管理人によると、葦平は自転車で近所に出かけ、神社へと続く石段によく腰掛けていたのだという
  • 若松駅操車場跡地に展示されているSL9600形の蒸気機関車。筑豊炭田で産出する石炭を若松港まで運んだ。葦平は石炭を積み出す荷役の家に長男として生まれた
  • 作品中、高塔山の風景描写に墓が何度となく登場した。洞海湾の対岸の八幡東区にある標高622メートルの皿倉山は、河伯洞の書斎の窓からも見える
  • 皿倉山展望台に上ってみると、明治時代に操業を始めた「官営八幡製鉄所」もある北九州工業地帯がよく見渡せた。洞海湾の向こうには高塔山の山肌に家々がひしめき合い、その奥には風力発電機が風を受けていた
  • 「ついに北九州がB29に蹂躙(じゅうりん)される日が来た」。人々は壕(ごう)に身を隠し、作品はクライマックスを迎える=浅原敬一郎撮影

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